「メメント・モリ/荒天型」の髭剃り

髭剃りに関してとある兵士の印象的な言葉を思い出した。

「仲間が死んだとき、そいつの顔を見たんだ。そしたら髭が伸びっぱなしですごく汚く見えた。悲しむよりも先に、そう思った。それから俺は毎日髭を剃るようにしてる」

よくわかる気がする。
戦死したのに戦友から「汚い顔だな」と思われたら死にきれない思いである(死んでるんだけれども)。
戦場に行く予定はないけど「電車を待っているときに後ろから押されて電車に轢かれるんじゃないか」「後ろを歩いてる人がナイフを持っているんじゃないか」とか、いろいろ想像してしまう身としては参事に備えて髭は剃っておいた方がいい気がする。
メメント・モリ」とはこういうことなのかしら。

どうしてこの兵士のエピソードが印象に残ったのかというと、周囲を見ているとずいぶん「メメント・モリ」な人が増えてきたように感じているからだ。
東日本大震災を経験して何時死んでもおかしくないと思うようになり、否応なく「メメント・モリ」を意識せざるを得ない事態になって、さらには令和元年における度重なる不運な事件・災害や二千万円の貯金が老後に必要という年金問題などにより「メメント・モリ」な人は日を追うごとに増加していっているようにわたしには見える。
つまりこれは「今日みたいな日がこれからもずっと続くだろう」という晴天型から「明日が今日と同じように過ごせるとは限らない」という荒天型にシフトしつつある、ということだ。
ここで「シフトした」と言い切れずに「シフトしつつある」と書いたのは、晴天型じゃなかったら仕事なんかとてもやってられないからである。
「〇月〇日に大地震が起きるから、それにあわせて事業拡大はこのへんまでにしておこう」みたいな計画を立てている会社は存在しない(そんな予測ができたら地震による被害はここまで大きくならない。台風も然り)。
言い方を変えると、そういう非常事態を考えないことがビジネス戦略である、と無意識ながらに採用しているのかもしれない。
原発事故はそれが完全に裏目に出た典型例だ。
生活のためには働かなくてはならないが、働くためには生死に関わる緊急事態を想定しないという歪みを抱えているのがわたしを含めて多くの人の現状だと思う。

でも、結果的に晴天型と荒天型のどちらが生存確率が高いのかといえば、荒天型だろう。
荒天型は「死ぬ」という最悪の事態を退けて「生き延びる」ことを最優先に考えるからである。
そう考えると、荒天型の考えと「メメント・モリ」はほとんど同義かもしれない。

話は少し変わるが、先日に友人のK君から晴天型と荒天型の対比が見られる格好のエピソードを聞かせてもらった。
K君がとある人に将来の夢を訊かれて「自分のできることをやっていこうと思います」と答えたら叱られたそうだ。
このエピソードを聞いて、わたしはK君が荒天型で叱った人が晴天型であるとカテゴライズした。
K君に叱られる所以があるとわたしは思わないから、K君を叱った人の考えは想像するしかないけど、恐らく「気合が足りない」とか「理想が低い」とか「敗北主義的だ」とか、そういう風に捉えられたのかもしれない。
でも、生き延びることを最優先に考える荒天型にとっては将来の夢とか理想の自分とか自分らしさとか、そういった向日的なことは二の次になるのだ。
それは悪いことだろうか?
だって、理想が高いのはけっこうだけれども、みんながピースボートに乗ったせいで家の前の掃き掃除とか雪かきをする人がいなくなったら、それはそれで秩序が失われた住みにくい社会になってしまうからだ。
つまり、エッセンシャルワーカーのことだけれども、悲しいことに必要不可欠な存在でありながら彼らの社会的地位はそこまで高くないと思う。
現に就活の場ではこのような現象が起きている。
一部の仕事をブランド化し狭い市場にすることによって、多くの労働者たちがその市場に集まっている現象がそれである。
これは結果的に買い手市場になって、能力が高くて賃金の安い労働者を企業がよりどりみどりで選べるようになる、というところに帰結する。
今更それを悪いことだと糾弾する気はないけれど、問題なのはここからで、その就活競争に敗北した(と感じている)人たちの一部は、エッセンシャルサービスに従事していくことが多い。
エッセンシャルサービスはその性質上、人手不足を絶対に回避しなくてはならず、雇用の枠が埋めつくされることはそうそうない。
それなのに、就活で敗北したからという理由でエッセンシャルサービスに従事したら、自尊心を欠いたエッセンシャルワーカーになってもなんらおかしくはない。
多くの災害を経てわたしたちが身をもって知ったのは、緊急事態に一番必要になるのは
エッセンシャルワーカー、並びに彼らへのリスペクトと手厚い保障である。
その人たちが自尊心を欠きながら労働をしている、という現状はすでに緊急事態だと思うのだが、K君を叱った人はそうは考えていない。または、そういうことを考えないようにしている。だからわたしはその人を晴天型とカテゴライズしたのである。

話が散らかって何が言いたかったのかよくわからなくて決めつけの多い記事になってしまったけど、どうも最近こういうことばかり考えてしまうのである。


PayPayは募金活動に悪影響?

最近流行の「PayPay」や「LINE Pay」といった電子決済サービスはその性質上、現金と比べて寄付活動が沈滞すると気がついた。
電子決済サービスはおつりが出ないからだ。
だから、コンビニやファストフード店のレジに置いてある募金箱におつりを投入するという現金ならできることが「PayPay」などでは構造的にできない。
わたしの記憶してる限り、募金箱に貼られた「皆様のご支援により〇〇円集まりました」と書かれたシールにはいつも数百万から数千万円くらいの金額が表されていた。
恐らくおつりを寄付する人の大半は「小銭を財布にしまうのめんどくせえ」という気持ちで数円とか数十円くらいを寄付をしていると思うが、まさに「塵も積もれば山となる」で、それくらいの大金がめんどくさがるだけで集まるなら、その不精さもバカにできるものではない。むしろ、どんどんめんどくさがって五百円とか千円くらい寄付してくれた方が世のためになる。
でも、電子決済サービスはめんどくさがることができない。

他方の募金活動においても現時点では悪影響があるのではないだろうか。
道端で募金活動をしている人は多くいるが、わたしが見てきた中ではすべて現金による寄付しかできない。
たしかスウェーデンでは電子マネーが進んでいるので、教会への寄付も電子決済ができるようになっていたが、現在の日本でそこまで対応できているところは少ないだろう。
もし、電子決済および電子マネーの普及を進めていくのであれば、それにあわせて募金活動の仕組みも変えていかねばならない。
しかし、それにはどれくらいの投資が必要なのだろうか(それにかかるお金を寄付したほうが効果的ではないのか)。
一概に電子決済サービスを批判するわけではないが、こういう懸念が生じるのではないかと、ふと思ったのである。

話は少し変わるが上記のことと関連して、内田樹先生のブログのとある記事を思い出した。
同志社大学客員教授のハサン中田考先生という方との対談の文字起こし記事で、中田先生はハサンという名前から察せられる通りイスラーム教徒である(中田先生の本は面白いのでオススメ)。
この対談内容を要約すると「貨幣は金貨でなければならない。なぜなら金貨はある閾値に達すると物理的に空間を圧迫して邪魔になるし、盗まれるかもしれないという不安も生じるので消費をするようになる。そして、それが通貨の流動性を担保する」というものである。
以下、記事からの引用。

中田(前略)金というのは(中略)あまりたくさん持っていても仕方ないわけです。むしろ邪魔なのです。しかも盗まれますから。邪魔ですから使ってしまおうと思う、ところがデジタルのお金っていうのはいくら持っていても邪魔にならないわけですね。しかも楽しいわけです。何兆円とかそういうふうになってしまうわけです。(後略)」

内田「(前略)個人が持ちうる財産には上限があって、それを超えてまで所有してもしかたがないといういうのは、極めて優れたアイディアですよ。兌換(だかん)紙幣というときまでは、『金だと持って歩くのが邪魔だ』という身体感覚がまだリアルに残っていたから、紙幣に代えたんでしょうけど(中略)。電磁パルスとしての財産はいくらあっても邪魔にならないわけですよね。結局、お金がいくらあっても邪魔にならないという仕組みが完成したことで貧富格差が拡大することになった金本位制度に戻そうと言うと何を馬鹿なことをと思う人が多いのでしょうけど、僕はこっちの方が直感的に正しいような気がします。」
(下線はカシワギ)

blog.tatsuru.com


慧眼である。
畢竟するところ記事の前半でわたしが書いたのは、物理的に存在する通貨とデジタル上に存在する通貨でわたしたちの生活にどれくらいの影響があるのかということだが、お二人の話はより本質的でとても面白い。


MMT(現代貨幣理論)の優しい解説動画をまとめました

先月あたりから、最近流行りのMMT(Modern Monetary Theory:現代貨幣理論)について調べていました。
これはとても面白いです。そして、MMTは広く流布すべき知識であるとも思いました。
というわけで本記事にてMMTの解説動画をいくつか紹介いたします。

①MMTとは(経済学)
②MMTは政治にどう影響を及ぼすのか(経済学+政治)
③MMTの実践(我々への影響)
④カシワギはMMTのどこを面白く感じたのか(あとがき)

本記事の構成は下に行くにつれてマクロな話から我々の生活への影響というミクロな話にシフトするようになっています(④はただの雑記ですが)。

紹介する動画の選択基準は「経済学についてほとんど無知なカシワギでも理解できた動画」というものです。動画の尺はそれぞれ40~50分と長いので、ゆとりのあるときにご覧ください。

④は「経済学に興味はないのに、MMTだけ例外的に面白く感じられたのはなぜか」について書いています。経済学への関心度がカシワギと同じくらいの方なら、まずは④から読んでいただくのもMMTの導入としていいかもしれません。


①MMTとは(経済学)

1つ目は経済評論家の三橋貴明氏による解説。三橋氏の説明は論旨が明快でとてもわかりやすいので導入として最適です。

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2つ目は京都大学教授の藤井聡氏による解説。三橋氏の解説と被る部分は多少ありますが、両氏の解説を比較するならば、三橋氏はMMTそれ自体についての解説が主で、藤井氏は経済学におけるMMTの歴史的ポジション、MMTと政治(税金や賃金など)について解説しています。

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3つ目は評論家の中野 剛志氏による解説。MMT批判への反論を主としているので「MMTの理論はわかった。でも、どこかに穴があるんじゃないの」と訝しむ段階でご覧になるとよいかと思います。

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こちらは動画ではなく、平川克美先生が東洋経済オンラインに寄稿されたMMTの解説記事です。
三橋氏がご自身のTwitteで絶賛していた記事ですが、わたしは解説動画をいろいろ観てからようやく理解できたので4つ目に紹介しました。

toyokeizai.net

 ②MMTは政治にどう影響を及ぼすのか(経済学+政治)

 4つ目は三橋氏とれいわ新選組党首の山本太郎氏の対談です。動画内での役割をたとえると、三橋氏が先生で山本氏が生徒となっています。
三橋氏が国会議員でも勘違いしている(つまり我々国民も勘違いしている)経済のことについて解説しているので「MMTはわたしの生活にどう影響するの?」「わたしたちは経済のことで騙されてることがあるのではないか」という疑問を解消したい方は、まずこちらの動画からご覧になられてもよいと思います。

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③MMTの実践(我々への影響)

政策を演説するときに必ず浮上してくる財源問題。山本氏の政策における「財源」はMMTをベースにしているので、山本氏の演説をご覧になればMMTによって我々の生活にどのような変化が生じるのか(主には消費税と賃金)についてご理解いただけるかと思います。
14:34~からMMTをベースにした政策(実践)について語っています。

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こちらはおまけとして、山本氏ご自身によるMMTの解説。

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④カシワギはMMTのどこを面白く感じたのか(あとがき)

本記事で紹介した動画をすべてご覧になった方はお疲れ様です。
まだご覧になってない方は、以下に書きとどめることがMMTに興味を持つきっかけになれば幸いです。

カシワギがMMTを面白がることができたのは「話が本質的すぎて数字が出てこないから」です。
わたしは足し算もできない「数字弱者」なので、新書とかで「つまりこれは数式でいうところのxとyが云々……」という説明が入ると著者と意図と反して逆にわからなくなってしまいます。だから数字だらけという印象がある経済学を避けてきました。
でもMMTは(というより今回紹介した賢者達の解説では)数字がほとんど出てこないから、わたしでもとっかかりやすかったのです。
また、「貨幣とはなにか?」という単純にして淵源な問いに真正面から立ち向かうラディカルな姿勢がもたらした価値観をひっくり返すような答えは、革命の瞬間に立ち会っているようで感動的です。
事実、「MMTは現在の経済論を覆す」ものであるそうです。
だから三橋氏も動画内でおっしゃっていたと思いますが、MMTは素人の方がすんなり受け入れられます。言い換えると、既存の経済学を学んできた人たち(それで糧を得てきた人たち)には受け入れにくい。そりゃあこれまでの考えが誤っていたと認めなくてはならないのはしんどいと思います。
「オレ、経済とかそういうややこしいことよくわからねえンだよね」という方こそ、MMTに触れるのにいちばん良いタイミングということですね。

MMTをわたしに教えてくれた平川克美先生は、そもそも貨幣とは何かという本質的な「貨幣論」がまだ存在していなかった、とおっしゃっていました。
繰り返すようですが、たとえると、これまでの経済論が天動説でMMTは地動説ということです。
そんなすごいことが目の前で起きているのか、と驚嘆を隠せません。
畢竟するところ、これまでの経済論は「貨幣論」を抜きにして論考が進められてきたので「ボタンのかけちがえ」が起きていた、ということになります。
もちろんこれだけスケールの大きい話なので反論も多く、素人のわたしはMMTの正否について判断を下すことはとてもできませんが、こういう状況のときには革命側に寄りそうのがわたしのスタンスなのでMMT論者の方々を信用して応援していく所存です。

バナナダイエットを始めて7か月経った

結論からいうと、痩せた。
バナナダイエットを始めたのは2019年4月。このときわたしの体重は身長170cmに対して70kgだった。
いまは66kgなので、4kg減ったということになる。もともとの体重は63kgだったのであと3kg減らしたい。
さて、実際に体重が減ったのでダイエットは成功したことになるが、これをバナナに特有のダイエット効果の表れと見るべきなのかは、実のところわからない。
というのは、高カロリーな食事をしていたから70kgにまで増加したのであって、(それと比較すれば)低カロリーにあたる食事にすれば、体重が減るのは当たり前ではないかと思うのだ。
70kgにいたったときの高カロリーな食事とは、主にコンビニのパンである。わたしはあまり朝早くに起きれないので、基本的に朝食は食べずに家を出る。会社の近くにあるコンビニでソーセージパンとかクリームパンとかを買って、デスクについてから食べていた。その結果、体重は7kgも増え、70kgになってしまったのだ。
この記事に興味をもってアクセスしてくれた方ならご存じの通り、コンビニのパンはやたらとカロリーが高い。わたしと同じ原因で肥えてしまった人は多くいると思う。
だから、コンビニのパンを止めて、代わりにバナナを食べるようにしたのだ。
それ以外は以前と同じく、昼食も夕飯も食べて、通勤時の徒歩以外の運動はしていない(ジュースとかお菓子はなるべく控えるようにはした)。
だからどうして体重が減ったのかと問われれば「コンビニのパンを控えてバナナを食べるようにしたから」と言うことはできる。
しかし、繰り返すようだが「バナナのなんとか成分が脂肪燃焼に云々……」という、バナナ特有のダイエット効果の表れなのかは不明である。

バナナダイエットをおすすめできるかといえば、おすすめはできる。
バナナは一房100~150円とリーズナブルな価格だし、消化が遅いからお腹の持ちがよい。あと、食物繊維のおかげか、お腹の調子はずっと良くなったと思う。
デメリットは、バナナがあまり甘く感じなくなってくることである。
たしか、ヒュー・ジャックマンが身体作りのために鶏肉を食べまくっていた結果、鶏肉が嫌いになったと言っていたけど、わたしもバナナで同じことが起きるかもしれない。
だって計算してみると、1か月で50本は食べていることになる。7か月で350本である。もしバナナが嫌いになったら、わたしの体重はまた増加するかもしれない。



2019年9月11日ーカシワギの近況報告

おおう、忙しいぜ。
色々なことが連続して起きているので頭の整理がつかない。
近況報告も兼ねて、いったん落ち着こう。

 

≪映画製作≫

短編のドキュメンタリー映画の製作に携わることになった。
作品のコンセプト上、内容についてはまだ語れないので割愛するが、ウキウキである。
ドキュメンタリー映画を撮ったことは一度もないので、どう作ればいいのかよくわからない。
ドキュメンタリー映画とはなんぞや」という根本的なことに関してわたしの考えは製作会議でだいたい話したので、次は実際にドキュメンタリー映画を観て、改めて「ドキュメンタリー映画とはなんぞや」と考えてみる。

というわけで、勉強のためにドキュメンタリー映画いくつか観る。
今回観たのは『アクト・オブ・キリング』(ジョシュア・オッペンハイマー)と『精神』(想田和弘)の二本。
最初にこの二本を観たのは、もちろん面白そうというのもあるけど、同じドキュメンタリーでも製作の仕方が全然ちがうからである。
その違いを端的に言うと「台本の有無」である。
両作品とも面白かった。

あとは何を観ようかしら。

実のところ、ドキュメンタリー映画はあまり観たことがないからマイケル・ムーアといった王道作品も観たことがない。
そういえば、日本未公開の海外ドキュメンタリー映画を厳選して紹介する『松嶋×町山 未公開映画を観るTV』という番組が以前にあった。
厳選されているだけあって、どの作品も面白そうだったのを覚えている。
中でも気になったのは次の三本。

ウォルマート〜世界最大のスーパー、その闇〜』
ジーザス・キャンプ ~アメリカを動かすキリスト教原理主義~』
ステロイド合衆国 ~スポーツ大国の副作用~』

※番組内で紹介された全作品は下記のリンクから確認できます

https://matome.naver.jp/odai/2135380494001567601?&page=1


あ、この機会に『ゆきゆきて、神軍』も観よう。


≪3Dアニメーション製作≫

上記の映画製作とは別件で、3Dアニメーションの製作にも関わることになった。
今のわたしは主にカメラで活動しているが、もともとアニメーションを専攻していたので楽しみである。
どんな作品ができあがるだろうか。

≪コラム≫

平川先生の講座でコラムを書いている。
前回の記事でも少し触れたが、このコラムを書くのがなかなか大変だったのだ。
締切当日になんとか書きあがったのでメールで提出。
このコラムは平川先生にオンラインで添削していただき、その後、平川先生のお店「隣町珈琲」(荏原中延駅)で他の受講者の人たちにも向けて発表をすることになっている。
その日が今日である。
ドキドキである。
こちらのコラムはそのうち本ブログにアップします。



他にもやることが色々あるのだけれど、どうしても手が回らぬ。
このような現状でありますのでどうかご海容ください。


2019年8月29日ーカシワギの近況報告

≪廃墟論≫

友人のT君から「廃墟が好きな理由はなんですか」と質問がきたので、コリコリと書いている。
いざ訊かれるとなかなか答えに窮する質問です。
こういうときテキトーに答えると「人工と自然が融合しているファンタジー」とか「人の面影を偲んで」とか、どこかで聞いたような言葉の羅列になって全く面白くない。
せっかくだからじっくり考えて「他の人があまり言わなそうなことを書こう」とハードルを上げて書き始めたら思っていたより長文になってしまい、まとめるのが難しくなってしまいました。
T君、あと一ヶ月くらい待っててください。


≪コラムの講座≫

平川克美先生が月一で開催している講座『言葉が鍛えられる教室』に通っている。
平川先生はわたしが敬愛する内田樹先生のご盟友なので、講座の告知を発見し、即座に応募した。
講座は前期と後期で分かれていて、前期はコラムで後期はエッセイを勉強する。
九月の講座で前期が終わるため、コラム講座のまとめとして「わたしの好きな作品」をテーマに千二百字のコラムの宿題が出たのですが、これを書くのがけっこう大変。
作文大嫌いっ子として学生時代を過ごしてきたカシワギにとって千二百字は文字数が多いし、破綻がないようにまとめるのが難しく、ちゃんと書き上げられるかドキドキしながら気が休まらない日々を送っている。
つまり、こうしている間にも締切が迫っているということである。
ブログを書いている場合ではないのだ。


≪ドイツ旅行計画≫
ドイツへの旅行を来年の一月あたりに計画している(一月が安いらしい)。
岡田斗司夫さんから「ドイツへ行くのだ」とアドバイスをいただいたので「では行きます」と返事をした。
何も考えずに二つ返事で「では行きます」と言ったので、あまり実感が湧かず他人事のように感じられるけど、どうやらカシワギはドイツに行かねばならないらしい。
こういうのも縁というやつでしょうから行くことにしました(それにこういうのは自分の考えより他人の意見の方が正しい)。
ドイツには前から行ってみたかったし。

目的地はニュルンベルクの「玩具博物館」。
十四~五世紀から現代までのおもちゃを展示していて世界的にも有名らしい。
「おもちゃを見るためにドイツに行くのか」と言われそうですが、そうなんです。

「玩具博物館」は自由時間に行って他のところはツアーで巡る、というのが暫定的なプラン。
楽しみ。

言語の壁はどうしようかしら。
若いドイツ人は英語が通じるらしいけど、若い日本人カシワギは英語ができない。
せっかくだからドイツ語を勉強してみようかと思い立つ。
英語の授業が嫌いだったので勉強はほとんどしなかったけど、ある程度時間が経ったせいかほとぼりが冷めて、言語中枢の外国語部門の領域が活性化している気がする(するだけ)。
とはいえ、スクールにがっつり通ったら旅行資金がなくなるので、レッスンを少しだけ受けて、あとはぶっつけ本番で行く、という算段です。
正直なんとかなるんじゃないかと楽観的なのですが、ほんとうにこれで大丈夫なのか。



あつ~い美術館めぐりからの帰還

土曜日は美術館をふたつ巡った。
行ってきたのは東京国立近代美術館の『高畑勲展』とBunkamuraの『ミュシャ展』のふたつ。
この暑い中ふたつも巡るのは思っていた以上に大変だったが、充実した一日となった。
同伴者は友人のT君。
彼は絵描きなので芸術に関して「あーだこーだ」と議論しながら巡ることができる(どちらも偏った知識しかないけど)。

最初に向かったのは『高畑勲展』。
高畑勲展』は規模が大きく内容も充実していた。
高畑勲の仕事を網羅しており、『太陽の王子ホルス』『アルプスの少女ハイジ』『火垂るの墓』などの設定資料や絵が色々飾られている。
詳しくは公式サイトを確認されたし。
https://takahata-ten.jp/

脚本や絵コンテやイラストボードや原画といった資料がいろいろ展示されており、わたしたちがいつもしている「作画担当者当てっこゲーム」しながら回遊してゆく。特にありがたく感じた展示は宮崎駿のイラストボードで、宮崎ファンのわたしたちはすっかりご満悦であった。
高畑勲展』のビジュアルブックを購入し退場する。
十時過ぎに入場して退場したのは十二時であった。二時間も居たとは少し驚きである。

昼食を食べて、恵比寿に向かう。
実は『ミュシャ展』に行く前に恵比寿の「東京写真美術館」に行ったのだ。
だから本来は美術館は三つ巡る予定だったのだが、展示期間を間違えていたので、お目当ての展示会はすでに終了していたと着いてから気が付いた。

うなだれながらベンチで小休憩しつつ、「
恵比寿ガーデンプレイス」の建築について語り合う。
恵比寿に向かう途中で彼に恵比寿に来たことがあるかと訊ねると「一回あるかないか」と言った。
恵比寿に着いて「東京写真美術館」まで歩いてるときに恵比寿の感想を訊くと「恵比寿の人間のセレブもどき感が気に入らない」「この西洋風の建築は贋作にしてもちゃっちい作りである」と酷評していた。
お気に召さなかったらしい。
わたしは彼ほど恵比寿に文句はないが、たしかに「恵比寿ガーデンプレイス」の奥にある鑑賞用なのかよくわからない洋館のデザインはあまりよくないと思う。
わたしたちは建築についてあまり詳しくないけど、優れたデザインの美術館とか「旧〇〇邸」といった西洋風の建物をいろいろ見てきたので、少しだけ(ほんとに少しだけ)建築にこだわりがある。
わたしのお気に入りは「神戸女学院大学」である。去年彼と行った「関西ヴォーリズ建築巡り」の最大の目的地が「神戸女学院大学」で、期待をまったく裏切らない美しい建物だった。

小休憩を終えて渋谷のBunkamuraに向かう。
疲れはほとんどとれなかった。暑すぎるもの。
渋谷は相変わらずの人混みで、Bunkamuraに着く前にノックアウトされてしまいそうだった。
けど、去年の暑さより幾分かマシだと思えたのは、最近入手した「乙女グッズ」手持ち扇風機があるからである。
これは大変な優れモノで、うちわを使って過ごしていたのが馬鹿らしくなるほどである。仕事に行くときもコンビニに行くときも手放せない。
しかし渋谷は別の意味で冷たい街のようで、わたしが扇風機の風を浴びながら歩いていると、渋谷のギャルから「男のくせに手持ち扇風機使ってる~」と暴言を吐かれた。
なんと失礼な。
男でも手持ち扇風機を使ったっていいじゃないか(だって涼しい)。
そういうことは思っても口にしてはいけない。
おそらく暑さのせいで自制が効かなくなってしまったのだろう。きみも手持ち扇風機を買いたまえ。
バカなおじょーさんを無視して、歩いてゆく。

ミュシャ展』は大盛況だった。
やはり女性の人気が高いようで、客の男女比でいうと女性が六割を占めていた。
わたしは特別ミュシャが好きというわけではないので、ミュシャの年表などは飛ばして「あ、この絵はクリムトっぽい」などと思いながら回遊していった。
というか、疲れてしまって頭が全然働かない。
やはり美術館を数件回るのは無謀だったかもしれない。
グッズ売り場に入ると雰囲気がガラリと変わり、本屋の少女漫画コーナーみたいな空気になっていた。
なぜなら、ここに入った瞬間男女比が急激に変化し女性が八割を占めていたからである。
なんだか居心地が悪いので逃げるようにBunkamuraを後にする(たぶん他の男性諸君も逃げたのだろう)。

一息つくためにカフェかファミレスに入ろうと思ったが、渋谷に空いている店があるわけもなく、少し歩く羽目になるけど表参道のほうに向かってサイゼリヤで休憩した。
あまりお腹は空いていなかったのでデザートを食べながら、今回の美術館めぐりについて回想しながら談義。

せっかくだから「青山ブックセンター」に行こうと提案する。
T君はまだ一度も行ったことがないとのことなので、「しめ」として「青山ブックセンター」へ。
青山ブックセンター」はいつ行っても楽しい本屋である。
それに、表参道駅はわたしの定期券の圏内なので表参道駅まで行くと交通費が浮くし、乗り換え的にも渋谷から帰るよりも楽になる(彼は家から遠くなる)。

青山ブックセンター」に行って写真集を見る。
T君もカメラを始めたので、とりあえず『写真の読み方(名取洋之助)』を買わせてから、写真集を物色する。
写真集を物色しているときの楽しみは「自分とおなじ匂い」のする写真を見つけることである。それは自分の「好み」とは違うのが面白い。
マーク・コーエンという人(わたしは知らなかったけど有名なのかしら)の写真集『MEXICO』がよかった。
値段を見ると、八千円。
また今度。

ようやく帰路に着いたときにはもう十八時をまわっていた。
脚はジンジンするし、服は汗くさいし、クタクタである。
帰宅してから今日の出来事をブログに書きとどめようと思ったが、お風呂から出てベッドでごろごろしている間に爆睡。
お盆は家でゆっくり映画でも観ながら過ごそう。