カシワギ、二十五歳になる。

少し遅れましたが、一月二十三日にカシワギは二十五歳になりました。
去年にも本ブログで二十四歳になったことを報告し、記事の冒頭で周囲の方々や神と仏に平伏して感謝を述べていたので、今回もそれを繰り返したいと思ったのですが、まったく同じ感謝の仕方だと芸がないので何か面白い言葉はないだろうかと考えてみる。

そこで、ふと頭に「南無三」が浮かびました。
カシワギはこういう自由連想的に湧いてくる言葉にはなんらかの意味があるとフロイトから教わったので、「南無三」を導入にして記事を書いていこうと思います。

しかし、「南無三」とはどういう意味なのだろう。
使いどころはなんとなーく知っているような気がするものの意味は知らないの
で、この機会に調べてみる。

南無三は、仏教語「南無三宝(なむさんぼう)」の略。
三宝」は「仏」と、仏の教えである「法」、その教えを広める「僧」のことで、仏教ではもっとも敬うべきとされるものである。 つまり、「南無三宝」は「仏」「法」「僧」の三宝の救いを請うという意味である。
三宝の救いを請うことから、失敗した時などに「南無三宝」や略した「南無三」と言うようになり、「しまった」「大変だ」といった感動詞として「なむさんだ」と言うようになった。

なんと、カシワギは感謝を述べるどころか、無意識のうちでは"
HELP"を求めている可能性が示唆されてしまった。
これでは感謝することができない。"HELP"はそれの前段階ではないか。
感謝が未来に放たれたばかりに、さっそくこの記事の執筆プランが瓦解して、方向性がわからなくなってしまいました。

いや、この仮説は根拠が薄い。
そもそもカシワギは「南無三」の意味を知らなかったので、「南無三」が自由連想されたとしても、"HELP"を求めていることにはならない。
たまたま「南無三」が"HELP"を意味していたから成り立った仮説であり、もしも"HELP"ではなくカレーを意味していたら、「カシワギはカレーが食べたいのだ」となる。
この仮説の蓋然性が高くなるのは「南無三」の意味を知っているカシワギが連想した場合においてで、今回の連想では、音感や綴り、仏教に関連する記憶(葬式とか)が要因となってると考えた方がいいだろう。

じゃあ、そっちの線で検証を行って、さらになにが連想されるだろうか。
思い出されるのは、ついこのあいだに墓参りに行ったこととか、葬式のあとはやたらと肩がこるとか、思い出すこと自体は一応ある。
しかし、ここでやりたいのは精神分析ではないし、記事のネタになりそうなものでない限りは不毛な作業のような気がする。

やっぱり執筆プランが瓦解してるじゃないか。
どうやら「南無三」を導入にしたのは失敗だったようです。
すっかり暗礁に乗り上げてしまったこの記事を、いったいどうやって書き進めていけばいいのでしょうか。
南無三。猫の手も借りたいくらいです。

今年もよろしくお願いいたします。