互いを見ないカップルについての私見(K君との往復書簡)

K君、お疲れ様です。
「逃げ恥は興味深い」を拝読しました。
公開書簡をしたいとのことですので、さっそく返信を書こうかと思います(と書いたのはもう二か月ほど前なのですが)。
公開書簡ですからジャルゴンで語り合うわけにもいかず、
「これってああだよね」
「うん、そうだね」
と互いに同意を繰り返しているやりとりは周囲から見て面白くないですし(いちおうわたしのブログには五人くらいの読者がいるみたいです)、視野狭窄も招きかねませんので、ここはあえて議論に発展するように反論的な私見を述べて返信に代えたいと思います。


記事内で印象に残った部分はここです。

「今の世の中周りを見渡せば、カップルで喫茶店にいるのに携帯ばかり見る2人や、カップルとは『数ヶ月で別れるもの』というイメージが目立つように思われます。そういった希薄そうに見える関係や刹那的な関係には私が想像もしない深いものがあるのかもわかりませんが、恋愛関係とはそんな関係のことを指しているかと問われたら私は懐疑的です。」


具体的には次の二点について。

①「カップルで喫茶店にいるのに携帯ばかり見る2人……」
②「カップルとは『数ヶ月で別れるもの』というイメージ…」

まずは①から考えていきます。

カップルで喫茶店にいるのに携帯ばかり見る2人……」
これを見てK君は「相手がいるんだから会話しなさいよ」と思ったのではないでしょうか。
その感じはわたしにもわかります。
しかし、現代においてはこれは礼儀作法なのかもしれない、という意見をわたしは目にしました。
それは内田樹先生と岡田斗司夫さんの対談本に書かれています。


岡田「(前略)うちの学校の生徒にはぼくと話しているときでも平気でケータイを操作する子がいるんですよ。恋人や友達と一緒にいるときでもおなじなんです。なぜかって考えると、それって彼らのなかでの礼儀作法なんですね」

内田「礼儀作法?」

岡田「はい。つまり自分は自分のマネジャーであって、目の前の第一世界の自分と第二世界の自分をつねにマネジメントしてるわけです。先生と話している私、ネットで友達とつながってる私など、私がいくつもあって、(…)『自分のなかで複数世界がレイヤー構造になっているという真実』を目の前で見せるという行為を通じて、『各レイヤーのマネジメントをするリアルな姿まで見せてるのは、あなたが大切な人だからだよ』というメタ・メッセージを送っていることになると考えているからだと思います」
内田樹岡田斗司夫『評価と贈与の経済学』、徳間書店、一二五頁)


これはわたしにはとても納得のいく分析です。私自身、ここで例として挙がっている若者と同じことをするからです。
もちろん「複数世界がレイヤー構造になっているという真実」を開示することが礼儀として通用するのは同じ価値観を持っている相手に限られますので、誰に対してでもやっていいわけではないですが、K君が見たカップルに関しては二人とも同じことをしているので、傍目には奇怪に見えるだけで特段問題はないだろう、とわたしは思います。
もし、これがケータイじゃなくて本だったらどういう印象になるのか今想像してみたら、文学少年と文学少女に特有のコミュニケーションの在り方のようで青春の香りがしませんか(村上春樹の小説ではこういう雰囲気のシーンがよく出てきます)。
どちらかというとこれに関しては、会話をしていないことが問題なのではなく、ケータイという現代を支配する文明機器への嫌悪感が悪い印象をもたらした、ということではないでしょうか。

②の「カップルとは「数ヶ月で別れるもの」というイメージ…」に移ります。
これに関しては率直に述べると、K君の恋愛における価値観が少々古いのかもしれません。
と申しますのは、カップルが離散する際に「別れる」というプロセスを経由する人が減ってきているからです。
いや、断言的に書きましたけど、実際はわたしの知人の例しか知らないので拡大適用することは憚られますが、まあ聞いてください。
次の例を考えると、どうして「別れる」プロセスが無いのかがわかります。
なぜなら、その知人は現在の恋人と付き合い始めるときに「告白」をしていないからです。
「告白」によって恋人同士になるという契りを交わしていないので、そもそも「別れ」が存在しないのです。
「告白」に限らず、結婚にしても就職にしても、あらゆる契りはこれまでの関係性を過去のものにして新しい関係性を構築するという、いわば境界線を設けるものですが、それがない。
人間関係の「ボーダーレス化」ですね。
互いの関係性にハッキリとした段階は無く、色彩表のように境界線がぼんやりとしているのです(境界線がぼんやりしているのは当人以外の人でもなんとなく知覚することができます。だからK君は「関係性が希薄そうに見えた」のかもしれません)。
わたしが続けて、
「どの段階で(段階はないようなものですが)恋人であると認識したのか」
と質問したら、
「恋人と言って差し支えないであろう距離感になっていることに気が付いたから」
と知人が答えました。
これは友人ができるときとほとんど同じ状況です。
K君も覚えがあると思いますが、友人というのは大抵の場合「いつの間にか」できているものです。
初めて会った日がいつなのかはなんとなく覚えている気がしますが、いつから友人になったのか、についてはほとんど見当がつきません(話が逸れますけど、洋画では「あなたとはいい友達になれる気がするわ」というセリフを度々目にします。で、そのあとに仲たがいするのがお約束ですよね)。
「見かければ挨拶を交わすし、世間話に興じる回数も増えて、家に帰ってからもケータイで連絡をとるようなことが増えてきた━━━━、じゃあ、彼はわたしの友人だな」
上記の友人を恋人に入れ替えると、さきほどの知人の例と同じものになっていますね。
しめに入ります。
K君の恋愛における価値観の古さがどこにあったのかというと、恋愛における人間関係には知人、友人、恋人といった段階が設けられていて、それらをシフトする際には告白や別れの宣言といったプロセスが必要である、という点です。
現在においては段階をハッキリさせずにぼやけさせることが好まれており、その理由は、段階ごとに設けられている「ポスト」に束縛されることを忌避するようになったからです。
ポストに束縛はされたくないが、各ポストを自由に回遊できるような身軽さは確保しておきたい。
だから、契りを交わさない。
なんともスマートではありませんか。
物事をハッキリさせずに曖昧なままにしておくことは日本の伝統文化でありますので、これもまた特段問題はないのであります。

返信がずいぶん遅くなってしまったので、ひとまずこれで筆をおきます。
冒頭と同じことを繰り返しますが、あえて議論に発展するように反論的に私見を述べましたので、今後公開書簡を続けていく中で少しずつ深堀りできればと思います。
それでは、お体に気をつけて。