「メメント・モリ/荒天型」の髭剃り

髭剃りに関してとある兵士の印象的な言葉を思い出した。

「仲間が死んだとき、そいつの顔を見たんだ。そしたら髭が伸びっぱなしですごく汚く見えた。悲しむよりも先に、そう思った。それから俺は毎日髭を剃るようにしてる」

よくわかる気がする。
戦死したのに戦友から「汚い顔だな」と思われたら死にきれない思いである(死んでるんだけれども)。
戦場に行く予定はないけど「電車を待っているときに後ろから押されて電車に轢かれるんじゃないか」「後ろを歩いてる人がナイフを持っているんじゃないか」とか、いろいろ想像してしまう身としては参事に備えて髭は剃っておいた方がいい気がする。
メメント・モリ」とはこういうことなのかしら。

どうしてこの兵士のエピソードが印象に残ったのかというと、周囲を見ているとずいぶん「メメント・モリ」な人が増えてきたように感じているからだ。
東日本大震災を経験して何時死んでもおかしくないと思うようになり、否応なく「メメント・モリ」を意識せざるを得ない事態になって、さらには令和元年における度重なる不運な事件・災害や二千万円の貯金が老後に必要という年金問題などにより「メメント・モリ」な人は日を追うごとに増加していっているようにわたしには見える。
つまりこれは「今日みたいな日がこれからもずっと続くだろう」という晴天型から「明日が今日と同じように過ごせるとは限らない」という荒天型にシフトしつつある、ということだ。
ここで「シフトした」と言い切れずに「シフトしつつある」と書いたのは、晴天型じゃなかったら仕事なんかとてもやってられないからである。
「〇月〇日に大地震が起きるから、それにあわせて事業拡大はこのへんまでにしておこう」みたいな計画を立てている会社は存在しない(そんな予測ができたら地震による被害はここまで大きくならない。台風も然り)。
言い方を変えると、そういう非常事態を考えないことがビジネス戦略である、と無意識ながらに採用しているのかもしれない。
原発事故はそれが完全に裏目に出た典型例だ。
生活のためには働かなくてはならないが、働くためには生死に関わる緊急事態を想定しないという歪みを抱えているのがわたしを含めて多くの人の現状だと思う。

でも、結果的に晴天型と荒天型のどちらが生存確率が高いのかといえば、荒天型だろう。
荒天型は「死ぬ」という最悪の事態を退けて「生き延びる」ことを最優先に考えるからである。
そう考えると、荒天型の考えと「メメント・モリ」はほとんど同義かもしれない。

話は少し変わるが、先日に友人のK君から晴天型と荒天型の対比が見られる格好のエピソードを聞かせてもらった。
K君がとある人に将来の夢を訊かれて「自分のできることをやっていこうと思います」と答えたら叱られたそうだ。
このエピソードを聞いて、わたしはK君が荒天型で叱った人が晴天型であるとカテゴライズした。
K君に叱られる所以があるとわたしは思わないから、K君を叱った人の考えは想像するしかないけど、恐らく「気合が足りない」とか「理想が低い」とか「敗北主義的だ」とか、そういう風に捉えられたのかもしれない。
でも、生き延びることを最優先に考える荒天型にとっては将来の夢とか理想の自分とか自分らしさとか、そういった向日的なことは二の次になるのだ。
それは悪いことだろうか?
だって、理想が高いのはけっこうだけれども、みんながピースボートに乗ったせいで家の前の掃き掃除とか雪かきをする人がいなくなったら、それはそれで秩序が失われた住みにくい社会になってしまうからだ。
つまり、エッセンシャルワーカーのことだけれども、悲しいことに必要不可欠な存在でありながら彼らの社会的地位はそこまで高くないと思う。
現に就活の場ではこのような現象が起きている。
一部の仕事をブランド化し狭い市場にすることによって、多くの労働者たちがその市場に集まっている現象がそれである。
これは結果的に買い手市場になって、能力が高くて賃金の安い労働者を企業がよりどりみどりで選べるようになる、というところに帰結する。
今更それを悪いことだと糾弾する気はないけれど、問題なのはここからで、その就活競争に敗北した(と感じている)人たちの一部は、エッセンシャルサービスに従事していくことが多い。
エッセンシャルサービスはその性質上、人手不足を絶対に回避しなくてはならず、雇用の枠が埋めつくされることはそうそうない。
それなのに、就活で敗北したからという理由でエッセンシャルサービスに従事したら、自尊心を欠いたエッセンシャルワーカーになってもなんらおかしくはない。
多くの災害を経てわたしたちが身をもって知ったのは、緊急事態に一番必要になるのは
エッセンシャルワーカー、並びに彼らへのリスペクトと手厚い保障である。
その人たちが自尊心を欠きながら労働をしている、という現状はすでに緊急事態だと思うのだが、K君を叱った人はそうは考えていない。または、そういうことを考えないようにしている。だからわたしはその人を晴天型とカテゴライズしたのである。

話が散らかって何が言いたかったのかよくわからなくて決めつけの多い記事になってしまったけど、どうも最近こういうことばかり考えてしまうのである。