異世界への「穴」はどこにあるか(K君との往復書簡)

お疲れ様です。
今週末は映画を見ました」を拝読しました。
ペンギン・ハイウェイ』と『グラン・トリノ』を観たんですね。
感想を読む限りどちらも楽しく視聴できたようで、充実した週末になったかと想像します。
ご指摘のとおり、わたしは『ペンギン・ハイウェイ』は未視聴です。
実は、森見登美彦の作品って小説でもアニメでも、ひとつも触れたことがないんですよね。特に湯浅政明さんが手がけてる『夜は短し歩けよ乙女』とか『夜明け告げるルーのうた』とか『四畳半神話大系』は観なければと思いつつ、なかなか消化できずにいます。

記事を読んでいて気が付いたのですが『ペンギン・ハイウェイ』と『グラン・トリノ』は両方とも人身御供のお話ですね。
いや、『ペンギン・ハイウェイ』の詳細はわかりませんが、ご説明いただいたおおまかなストーリーから察するに、恐らくそのお姉さんは災いをもたらす「穴」を塞ぐためにどこかに消えてしまったのかと思ったので、そう決めつけました(呪鎮をする巫女みたいな)。
でも、恐らくそういう物語であってますよね。
主人公のアオヤマくんが終盤で成長したということは「喪失を経て少年(少女)が成長をする」という王道的なプロットかと思います。
たとえば『ドラえもん』なら、壊れて動かなくなったドラえもんを直すためにのび太が勉強を頑張るようになり、『E.T.』なら、一緒に自分の星に行かないかというE.T.の誘いを断ってかつて逃げ出したいと思っていた今の居場所に留まることをエリオット少年がたくましく決断します。
どちらも「大事な物を喪失する」という部分で共通しています。
だから『ペンギン・ハイウェイ』においてもお姉さんはどこかに消えたのだろうと想像しましたが、あっていますか?(たぶん観ないので)

さて、K君は『ペンギン・ハイウェイ』を観て「特定の他者のためにエネルギーを注ぐ」という点に注目したのと同時に「異世界への穴」について軽く言及しました。
せっかくなので、わたしはこの「異世界への穴」を自分なりに掘り下げてみようかと思います。
少々前置きが長くなりましたが、以降が本題です。

まず「異世界への穴」が何なのかについて語るために『ペンギン・ハイウェイ』が「マジックリアリズム」の手法で描かれていることに触れます。
マジックリアリズム」とは日常と非日常が融合した作品に対して使われる表現技法のことです。
わたしたちと同じような価値観を持ったキャラクターが、わたしたちが過ごす現実世界を舞台に生活しており、ある日を境に非日常的世界に足を踏み入れる。
物語の展開はだいたいこんなところです。
有名な作品ですと『となりのトトロ』や『羊をめぐる冒険』がそれにカテゴライズできます

ですから物語の序盤ではファンタジー要素が欠片も感じられないほど、いたって普通の「世界(=日常)」が描かれているのが大半です。
あくまでも日常と非日常が融合した世界を描くことに限りますので、『風の谷のナウシカ』とか『ロード・オブ・ザ・リング』といったわたしたちが生きる現実世界の色々な法則と大きな乖離がある世界──つまり、わたしたちにとっての非日常的が舞台となっている作品は「マジックリアリズム」にあたりません。

異世界への穴」に話を戻します。
ここで言う「異世界」を、先述した「非日常」と同義のものとしますと「異世界への穴」とは「日常と非日常の境目」のことです(長いので以降は「穴」と表記します)。
ペンギン・ハイウェイ』においてはアオヤマくんが森で「海」という水の球、すなわち「穴」と邂逅し、非日常的世界へと足を踏み入れることになりました。
ここからがわたしの書きたかった勘所なのですが、個人的に「マジックリアリズム」は非日常的世界をどう描くよりも「日常と非日常の境目をどこにおいたか」という点に作家の個性が強く表れると思うんです。
ペンギン・ハイウェイ』と『となりのトトロ』では森に「穴」があるとしました(童話なら『ヘンゼルとグレーテル』もそれにあたりますね。森に「穴」があるという感覚は人類に普遍的なものなんでしょう)。
でも「穴」というのは実体的に存在するスポットだけに限定されません。
それは、人間の精神的なものでもありえるわけです。
わかりやすい例としてイタリアの小説家マッシモ・ボンテンペルリ(1878-1960)が第二次世界大戦後に書いた『巡礼』という作品を挙げます。
わたしは以前に、
この『巡礼』を紹介するコラムを書いたのですが、そのときに「日常と非日常の境目をどこにおいたか」という考えを思いついたので、そのコラムの一部を引用して説明します。


『巡礼』は(…)子供と大人の境目という不安定な青年期の主人公が、合唱しながら行進している「巡礼たち」に交じって「巡礼」に出るという物語だ。
これは「若者が家郷を捨てて、旅立つ」という世界中で展開されている冒険的説話で、このことから察せられる通り、『巡礼』は若者の成長を促すために書かれた教養小説である。
このような物語は山ほど存在するが、『巡礼』はそれらの作品とは少し毛色が違う。
普通は主人公の巡礼に出る理由や目標などが描写されるが、この作品にはそれらが一切描かれない。
(…)主人公が巡礼に出た理由は「好奇心に突き動かされた」からである。
功利的な理由など無い。
(…)それはつまり、直感に従うかどうかが『巡礼』における物語の最大の分岐点ということである。
ボンテンペルリはそこに「日常と非日常の境目」をおいた。

その巡礼はぼくをさそった。

「きみも来ないか?」
ぼくはすぐに同意した。
「喜んで行きましょう」

主人公は直感に従った結果、天使や悪魔と遭遇するという非日常的な体験──つまり、既存の価値観が通用しない「未知の領域」に足を踏み入れることになる。


小説の冒頭では主人公は自宅の窓から外を眺めているだけで、森とか洞窟といった如何にも「穴」らしきところにいるわけではありません。
でも、彼は異世界に足を踏み入れることとなったのです。
その理由は『巡礼』で描かれた「穴」である「好奇心」に主人公が従ったからです。
興味深いのは、コラム内でも触れていますが『巡礼』が教養小説ビルドゥングスロマン)であることで、教養小説である以上、ボンテンペルリがマジックリアリズムの手法でもって読者に送ったメッセージは決して夢物語的なものではなく、現実世界に当てはめて活用することができる「術」であったとわたしは考えてます(そもそも日本で『巡礼』が教養小説であると論じる人がわたし以外にいないと思うのですが。正式には幻想小説にカテゴライズされてるみたいです)。
また、このコラムを書いているときに「好奇心」が「穴」であると説いたあの人を思い出しました。
スティーブ・ジョブズがその人です。

The most important is the courage to follow your heart and intuition, they somehow know what you truly want to become.
「いちばんたいせつなことは、あなたの心と直感に従う勇気をもつことです。あなたの心と直感は、あなたがほんとうはなにものになりたいのかをなぜか知っているからです。」


スタンフォード大学の卒業式でのスピーチですね。
ボンテンペルリとジョブズの言葉は、「好奇心」という「穴」に向かって進め、という点で共通しています。
ほんとうはジョブズのスピーチもコラムでも引用したかったのですが文字数がオーバーするから泣く泣く削ったので、本記事でそれが叶いほくほくです。

さて、話が脱線している気がしますが、いいかげん長くなってきましたのでぼちぼち終わりにします。
異世界への穴」というファンタジーなフレーズを主題にしたわりにけっこう現実味のある内容になってきましたね。
続きは往復書簡を続けながら触れていければと思います。
ではでは。
あ、運動ですが、さいきん気温があがってきたので秋が来るまで自粛しようかと思います。