次の休日は、東京裁判を傍聴して北野武に銃で撃たれる

今週の土日は映画漬けになる予定。
土曜日はユーロスペースで『東京裁判』を観て、日曜日は新文芸坐で「たけし映画三本立て(『その男、凶暴につき』、『キッズ・リターン』、『HANA-BI』)」を観る。
合計すると、およそ十時間である。
長い。
この土日を終えたとき、わたしの顔は帰還兵の面持ちになっていると思う。

でも、『ロードオブザリング』三部作が合計で九時間半くらいなので、そう考えるとさして長くないかもしれない(いや、長いな)。

一番楽しみなのは『東京裁判』である。
この作品は膨大に残された東京裁判の記録映像を編集して、四時間三十七分にまとめた歴史ドキュメンタリー。
ユーロスペースでは4Kデジタルリマスター版が公開される。
こういう作品に対して面白そうと言うのは少し憚られるけれど、面白そうである。

恥ずかしながら、わたしは小林正樹の作品を一本も観たことがないので『東京裁判』が最初の一本目になるのだが、初めての小林正樹が『東京裁判』というのは、やや変わった入門の仕方のような気もする。
去年「ベルイマン生誕100年映画祭」があったとき、わたしはベルイマンの作品を一本も観ていなかったので、これはいい機会と思い、上映作品をちゃんと確認せずに映画館に駆け込んだ。
そして痛い目に遭った。
一本目に『仮面/ペルソナ』を観て、二本目に『ファニーとアレクサンデル』を観た。
この『ファニーとアレクサンデル』が問題だった。
『ファニーとアレクサンデル』はおよそ五時間ある作品で、「巨匠のわがままを黙認しました」というスパイスがこれでもかとまぶしてある。
『仮面/ペルソナ』は王道として問題ないが、『ファニーとアレクサンデル』はベルイマンデビューの二本目に観る映画ではない。
『野イチゴ』とか『叫びとささやき』あたりを観るべきだった(その日は上映してなかったけど)。
だから今回の小林正樹デビューには、ベルイマンと同じく、「まずはこの作品から」という王道から外れてる点で、既視感を覚える。

そういえば、まだ『新聞記者』も観ていない。
こちらも観なくては。

あてにならない視力検査

視力検査はあてにならない。
わたしの視力は〈 右目1.5 / 左目1.0~1.5 〉で、もうずいぶん長いこと左目の視力だけ0.5上がったり下がったりしている。

原因はわかっている。
視力検査をするとき、あのスプーンみたいな黒い棒で最初に押さえるのが左目だからだ。
押さえていたせいで、左目を開けると視界がぼや~っとしている。ぼや~っとした左目で検査をしても正確な数値が出るわけがない。
わたしが左目を強く押さえすぎなのかもしれないけど、この検査方法はアナログすぎるんじゃないだろうか。
初めて眼圧検査をうけたときは、空気砲みたいなのを目玉に当てられて、「おもしろい検査だなあ」と時代の進歩に感嘆したのに。

一度だけ両目とも2.0と検査結果が出たことがある。
なんとなく2.0の検査結果がほしくなったので、はっきり見えない輪っかも「わかりません」と言わずに勘で答えていたら、うっかり全問正解してしまい両目とも視力2.0という検査結果を獲得したのである。

去年の結果と比べてみると、左目の視力が1.0も上がっていることになる。
1.0も上がったらさすがにおかしいだろう。
0.1の人だったら、1.01に上がったということだぞ。
この検査結果を見てあなたは何も思わないのか、と構えていると
「次の検査へどーぞ」
と言われた。

そろそろ新しい視力検査方法が出てきてもいいんじゃないかしら。


世界地図からの申し立て―「eyes wide open」―

世界地図とかわいそうなメアリー」では、世界地図がすぐに見られる環境について書いた。
世界地図の効能について、もうひとつ発見があることを思い出した。
世界地図があると「視野が広がる」。
この発見は、以前に旅行を計画したときに世界地図がチラリと視界に入ったのがきっかけである。

わたしは出不精なので旅行をすることがあまりない。そのせいで「旅行でもしようかな」と考えても候補に挙がってくる土地が自分の近隣ばかりになる。どれだけ視野を広げても日本の最北と最南まで。無意識の内に金銭と言語の壁を勘定し、日本国内に留めてしまっている。
世界地図はそのことに「待った」をかけた。
「ちょっと君、どうして構想段階なのに候補が日本国内だけなんだい?」と的確な問いを投げかける。
全くもってその通りである。
構想段階で制限を設ける必要はない。現実的な制限について考えるのは後の工程である。
"世界地図さん"と対面し、前々から行ってみようと思っていた国に指を指していく。
イタリア、バチカンチェコフィンランドウクライナ等々。ずいぶんと行きたいところが多いんだ。

妄想に耽る。
イタリアなら南部だ。シチリア島が見たい。行く前に『ニュー・シネマ・パラダイス』を見返そう。
バチカンに行ったらサン・ピエトロ大聖堂に行ってミケランジェロの『ピエタ像』を見よう。
チェコでは道端で人形劇が見られるらしい。カフカの博物館もある。
フィンランドは宣伝のためにムーミンをこれでもかというくらいプッシュしており、彼は過労死寸前だという。
ウクライナチェルノブイリは生きてるうちに一度行こうと決めていた。人間が去ってからは草木は生い茂って、動物たちの楽園と化しているらしい。被爆する可能性があるから、行くのは最後がいいだろうか――。
…………と、ウインドウショッピング的な楽しみ方で愉快な時間を過ごす。

その後、わたしは実際に旅行をした。
関西への旅行になった。


「つめた~い」で一句

最近、冷たい飲み物を飲むとお腹を下すようになった。

自動販売機で売られている「つめた~い」はほとんどアウトである。

 

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湯を混ぜて

常温飲まねば

腹下し

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冷えたミルクティーはもう確実である。

 

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牛乳や

骨に届かず

腹下し

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だから、ウォーターサーバーの水を飲むときは

水:8

湯:2

の割合で飲む。

これを「水八湯二(みっぱちとうじ)」と名付けた。

 

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冷えもなく

熱さもなければ

腹のどか

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おあとがよろしいようで。

 

世界地図とかわいそうなメアリー

前に世界地図のポスターを買ったので、部屋の壁に貼っている。およそ一年くらい経った。
世界地図を買ったのにはマツコ・デラックスが関係している。
マツコが出演している番組を観ると、マツコが地名や駅名をすらすらとそらんじている様子が度々うかがえる。
それに対して、わたしは小田急線の駅名くらいしかそらで言えないので(豪徳寺あたりは怪しいが)、これはイカンと思い、世界地図を買ったのだ。
Amazonで千円くらいのリーズナブルな価格だったのですぐに購入したが、なんと横幅が一メートルくらいある。
これだけ安いのだからあまり大きくないだろうと思い、サイズをちゃんと見ないで買ったのがいけなかった。先方はわたしのようにケチじゃない、心ある業者だったのだ。
壁面だけでスペースを確保しようと試みるが、どうしても窓とぶつかってしまう。しかたないのでカーテンのように窓を覆って貼った。
それ以降、遮光された部屋で世界地図のある生活を送ってきた。

これで少しは知的になるかしら、というアホ特有の動機で買ったものだが、それでも効果は多少ある。
今までは、ニュースで「〇〇でテロがありました」という報道があっても具体的に地球のどこにある土地なのかわからなかったので、あのへんかなぁとぼんやり思い出して、ニュースが終わればついに謎のまま放置していた。
世界地図の効用はこのとき発揮される。
地球のどこにある土地なのかわかるのだ。
まあ、それは当たり前のことだが、それとは別にわかったことがもう一つある。
「あの国はどこにあったっけ」という疑問は予想以上に頻発している。
テロといった政治的なニュースに限らず、旅行番組しかり、音楽番組しかり、現代では外国の地名に触れない日の方が少ない。
それらのものを見るたびにわたしは「それはどこだろう」と感じていたということである。そんな頻発する疑問をこれまで放置できたのも、ある意味大胆だ。
これを機に少しだけ地理の知識がついた。なにせ部屋の壁を見るとすぐに場所がわかるのだから、動線として確立せざるを得ない。スマホやPCで調べる手間は意外と大きい。
「ロシアがシリアを爆撃した」と報道されれば位置関係を確認できる。すると二国のあいだにある国は軍の通り道や駐屯地になっているかもしれないので、「どちらの国に加担しているのだろうか」と自然に発想できる。
中国の読み方がわからない地名もルビのおかげで覚えられる。
アメリカ映画には、「〇〇州まで車で行くぞ」とジョンが言って、メアリーが「あなた正気!?」と呆れるシーンがあるが、世界地図を見れば距離感がわかるので、メアリーに同情できる。

ふと、ある日の古い学友を思い出した。
どんな学校にも一人くらいは地理が好きで、どんな国の首都でもそらで言うことができる優れた人がいる。彼はその一人だ。
彼はいつも教科書に載っている地図を目で食らうように見ていた。
彼を見て「地図なんか見て、なにがおもしろいんだ」と、そのときは思っていたが、今わたしのしていることは彼の真似である。

世界地図、なかなかいいですよ。