宮古ブルーへと誘う横道

宮古島の見どころは当然オーシャンビューであり、内地のほうはさして面白いとは言えない。
サトウキビ畑が見渡す限り続いており、どこまで進んでもコピーアンドペーストしたように同じ風景である。
その点においては本州の田舎の風景と大して変わらない。しかし、そんな道のりであっても、マラソン大会の給水所のようにご褒美を得られる瞬間がたまにあるのだ。
延々と続く田園風景の切れ目、畑と畑の境目に、海に向かうための横道がある。
数百メートルほどの綺麗な直線と、穏やかに上下へとくねった坂道。規則的に立てられている古びた電柱は海を消失点に奥行きのあるパースペクティブを描いて、宮古ブルーの海に引力を発生させる。海へと誘うその横道を目にした瞬間の胸の高まりは、海を眺めたときの感動とはまた別物である。
それは自分が片思いしている相手がほんの一瞬見せた普段とは違う表情にドキリとするのと似ている。

電車で三途の川を渡りかけた夢

一時期、わたしは寝る前にYouTubeにアップされているラジオを聴くのを習慣にしていた。
どうしてそれを始めたのかというと、寝る前にあれこれとネガティブなことを考えて落ちこむことが多かったので、気を紛らわすために聴いていたのだ。
だから、ラジオ番組は穏やかな気分になれるものをチョイスする。
中でもお気に入りだったのは美輪さんのラジオで、声は落ち着くトーンをしているし、ありがたい話も聴けて、睡眠導入には最適だった。
だが、あの日に聴いた美輪さんの話は夜に聴いてはいけないものだった。

「今日もありがたい話を聞いて、いい気分で寝るぞ」と全身をリラックスさせた無防備な状態のわたしに届けられたのは「悪霊」の話。
これがえらい怖くて、眠るどころか目がパッキーンと見開いて、脳が完全に覚醒してしまった。
途中で聴くのを止めればよかったのかもしれないけど、怪談話としてはとても面白かったので、そのまま聴き続けてしまったのだ。


夜も更けて0時を回り、冷蔵庫の「ブウウ――ン……」(@ドグラ・マグラ)という音が鮮明に聞こえるほど感覚が鋭敏になったわたしは、部屋の隅っこの影に怯えながら天井を見つめていた。
いくら時間が経っても眠気は露ほども生じず、いっそのこと布団から出て部屋の灯りを点けようかとも思ったが、床に足を着けた瞬間、ベッドの下に潜む「何か」が足を掴んでくるかもしれないと恐れていたので、けっきょく何もせず、ジッとそのまま横になっていた。

すっかり八方塞がりな状況であるが、わたしにはひとつ希望があった。
「こんな状況であってもなんだかんだいつかは寝ている」という経験である。そういう考えもあって、ジッとしていたのだ。
一分を五分のように感じ、首元をこする毛布の痒さに耐えながら「いつかは寝ている、いつかは寝ている……」と頭の中で繰り返し唱えていた。
体感的には四十分ほど経ったあたりで、頭の中で映像が勝手に流れ始め、だんだんと夢うつつの状態になり「これでようやく眠れる」とほっと一息ついた。

しかしその瞬間、突然わたしにとある確信が訪れた。
いまだから回想できるが、訪れた確信とは「金縛りになる」というものだった。
そのときは言葉にする間もなく、パチっと弾けたような感覚が合図となって金縛りにあい、胸がキュウと締め付けられて呼吸ができず、そして、血が凍っていくような恐怖が襲ってきた。
寝起きビンタドッキリのような不意打ちである。
わたしは金縛りにあった経験が数回しかなく、おまけにどれも心霊的な恐怖体験を伴っていたので、それは夢に過ぎないと決めつけてはいるものの、怖いものはやはり怖い。

このときに感じていた恐怖がどれくらい大きなものだったのかを言葉にするのは難しい。
たぶん大抵の人がそうだと思うのだが、感情が喜怒哀楽のどれか一色で染まることはそうそうない。
激怒しているときでも心の片隅では「お腹が空いたな」「早く帰りたいな」とか、笑っているときでも「自分の笑い方って変だな」「こんなに笑ったの久々だな」とか、あまり関係ないことをほんの少しだけ考えていたりする。
でも、このときのわたしの心は恐怖の一色だけで染まっていた。ある意味、貴重な体験であった。

一難去ってまた一難。またしても八方塞がりの状況になってしまったわけだが、今度は何をすればよいのだろうか。
まあこれも結局「なんだかんだいつかは寝ている」である。
実際、いつの間にか気を失ったように眠りについていた。


ようやく前段が終わって本題の夢の話に入れる。
どうしてここを語らなければならないのかというと、三輪さんの悪霊の話と金縛りにあったという前段がなければ、「電車で三途の川を渡りかけた夢」などと考えず、ただの夢として忘れていたと思うからだ。


夢は現実世界と寸分違わない日常的なルーティンから始まった。
自分のベッドで目を覚まし、平日だから会社に行く身支度をせっせと済ませて家から出る。
わたしの体はカフカの『変身』のように虫になっていないし、窓から差し込む日光の角度はいつもと同じだし、ペットの三毛猫の模様は相変わらずへんちくりんだ。
これ以上ないほどに日常的である。
しかし、外の風景だけは非日常的だった。
街が海に沈んでいたのだ。
家の屋根に設置されたアンテナや電柱の先端だけが海面から突き出ていて、それ以外のものは全て沈んでおり、遠くには水平線。
大海原を眺めているかのようだった。
わたしは「ずいぶんスッキリとして綺麗だな」と思い、しばらくこの風景を眺めていたかったが、遅刻ギリギリだったので駆け足で駅に向かった。

街が海に沈んでるのにどうやって駅までたどり着いたのかはわからないし、どうして駅だけが無事なのかも疑問だが、ともかく電車に乗ることができたので遅刻はせずに済みそうだった。
車内は通勤時間とは思えないほど閑散としており、乗客はチラホラといるものの、空席が目立つ田舎の電車のようであった。
電車が発車し、窓の外を眺める。
「もしかして、海に沈んでいるのは自宅周辺だけで、この先はいつも通りなのかもしれない」
そう考えた。
が、様子はさっきまでと何も変わらず、やはり街は海に沈んでいた。
世界が海に沈んでしまったのだ。
さっきは電車に間に合わせるために横目でしか風景を見ていなかったので、改めてじっくりと眺めた。
「これはこれで悪くない。ユートピアといっても過言ではない」と思った。
こんな景色はなかなか見られないので、わたしはスマートフォンを取り出しパシャパシャと撮影した。
夢中になっている間に次の駅に停車。急行電車に乗り換えた。

次のシーンが夢のクライマックスである。
急行電車がゆっくりと動き出し「さて、この先はどんな風景が見られるのか」と楽しみにしていると、なんと逆方向に走り出した。
つまり、会社の方ではなく、自宅の方に戻ってしまったのだ。
「これでは遅刻してしまう」と狼狽えて強い焦りを感じた瞬間に目が覚めて、夢が終わった。


これが「電車で三途の川を渡りかけた夢」の全容である。
とても聞き覚えのある物語の構造であったと思う。
交通事故などで重体となって、気を失っているあいだに「川の向こう側におじいちゃんがいる夢を見た」という話と同じだ。
そして、「こっちに来てはいけない」と帰されたり、あるいは「こっちにおいで」と誘われたりする。
向こう側は死の世界である。

もし、わたしが乗った電車が逆方向に走り出すことなく、そのまま会社のほうへ行ってしまったら、いったいどうなっていたのだろうか。
とうぜん検証する術などなく、ただの夢でしかないのは重々承知している。
ただ、先述したとおり、美輪さんの悪霊の話と金縛りにあったという前段があると、「ただの夢として話を済ませてしまってよいのだろうか」という感覚になってしまうのもご理解いただきたい。
だって、美輪さんだし。

以下は余談だが、夢の始まりが「自分のベッドで迎える平日の朝」なんてものだったから、目覚めたときに「あれ、電車に乗らなかったっけ」と混乱し、夢の中で撮影した写真がスマートフォンの中に残っているのではないかと、思わずチェックしてしまった(残ってなかった)。
それくらいにはリアリティのある夢であった。


カシワギ、二十五歳になる。

少し遅れましたが、一月二十三日にカシワギは二十五歳になりました。
去年にも本ブログで二十四歳になったことを報告し、記事の冒頭で周囲の方々や神と仏に平伏して感謝を述べていたので、今回もそれを繰り返したいと思ったのですが、まったく同じ感謝の仕方だと芸がないので何か面白い言葉はないだろうかと考えてみる。

そこで、ふと頭に「南無三」が浮かびました。
カシワギはこういう自由連想的に湧いてくる言葉にはなんらかの意味があるとフロイトから教わったので、「南無三」を導入にして記事を書いていこうと思います。

しかし、「南無三」とはどういう意味なのだろう。
使いどころはなんとなーく知っているような気がするものの意味は知らないの
で、この機会に調べてみる。

南無三は、仏教語「南無三宝(なむさんぼう)」の略。
三宝」は「仏」と、仏の教えである「法」、その教えを広める「僧」のことで、仏教ではもっとも敬うべきとされるものである。 つまり、「南無三宝」は「仏」「法」「僧」の三宝の救いを請うという意味である。
三宝の救いを請うことから、失敗した時などに「南無三宝」や略した「南無三」と言うようになり、「しまった」「大変だ」といった感動詞として「なむさんだ」と言うようになった。

なんと、カシワギは感謝を述べるどころか、無意識のうちでは"
HELP"を求めている可能性が示唆されてしまった。
これでは感謝することができない。"HELP"はそれの前段階ではないか。
感謝が未来に放たれたばかりに、さっそくこの記事の執筆プランが瓦解して、方向性がわからなくなってしまいました。

いや、この仮説は根拠が薄い。
そもそもカシワギは「南無三」の意味を知らなかったので、「南無三」が自由連想されたとしても、"HELP"を求めていることにはならない。
たまたま「南無三」が"HELP"を意味していたから成り立った仮説であり、もしも"HELP"ではなくカレーを意味していたら、「カシワギはカレーが食べたいのだ」となる。
この仮説の蓋然性が高くなるのは「南無三」の意味を知っているカシワギが連想した場合においてで、今回の連想では、音感や綴り、仏教に関連する記憶(葬式とか)が要因となってると考えた方がいいだろう。

じゃあ、そっちの線で検証を行って、さらになにが連想されるだろうか。
思い出されるのは、ついこのあいだに墓参りに行ったこととか、葬式のあとはやたらと肩がこるとか、思い出すこと自体は一応ある。
しかし、ここでやりたいのは精神分析ではないし、記事のネタになりそうなものでない限りは不毛な作業のような気がする。

やっぱり執筆プランが瓦解してるじゃないか。
どうやら「南無三」を導入にしたのは失敗だったようです。
すっかり暗礁に乗り上げてしまったこの記事を、いったいどうやって書き進めていけばいいのでしょうか。
南無三。猫の手も借りたいくらいです。

今年もよろしくお願いいたします。



異世界への「穴」はどこにあるか(K君との往復書簡)

お疲れ様です。
今週末は映画を見ました」を拝読しました。
ペンギン・ハイウェイ』と『グラン・トリノ』を観たんですね。
感想を読む限りどちらも楽しく視聴できたようで、充実した週末になったかと想像します。
ご指摘のとおり、わたしは『ペンギン・ハイウェイ』は未視聴です。
実は、森見登美彦の作品って小説でもアニメでも、ひとつも触れたことがないんですよね。特に湯浅政明さんが手がけてる『夜は短し歩けよ乙女』とか『夜明け告げるルーのうた』とか『四畳半神話大系』は観なければと思いつつ、なかなか消化できずにいます。

記事を読んでいて気が付いたのですが『ペンギン・ハイウェイ』と『グラン・トリノ』は両方とも人身御供のお話ですね。
いや、『ペンギン・ハイウェイ』の詳細はわかりませんが、ご説明いただいたおおまかなストーリーから察するに、恐らくそのお姉さんは災いをもたらす「穴」を塞ぐためにどこかに消えてしまったのかと思ったので、そう決めつけました(呪鎮をする巫女みたいな)。
でも、恐らくそういう物語であってますよね。
主人公のアオヤマくんが終盤で成長したということは「喪失を経て少年(少女)が成長をする」という王道的なプロットかと思います。
たとえば『ドラえもん』なら、壊れて動かなくなったドラえもんを直すためにのび太が勉強を頑張るようになり、『E.T.』なら、一緒に自分の星に行かないかというE.T.の誘いを断ってかつて逃げ出したいと思っていた今の居場所に留まることをエリオット少年がたくましく決断します。
どちらも「大事な物を喪失する」という部分で共通しています。
だから『ペンギン・ハイウェイ』においてもお姉さんはどこかに消えたのだろうと想像しましたが、あっていますか?(たぶん観ないので)

さて、K君は『ペンギン・ハイウェイ』を観て「特定の他者のためにエネルギーを注ぐ」という点に注目したのと同時に「異世界への穴」について軽く言及しました。
せっかくなので、わたしはこの「異世界への穴」を自分なりに掘り下げてみようかと思います。
少々前置きが長くなりましたが、以降が本題です。

まず「異世界への穴」が何なのかについて語るために『ペンギン・ハイウェイ』が「マジックリアリズム」の手法で描かれていることに触れます。
マジックリアリズム」とは日常と非日常が融合した作品に対して使われる表現技法のことです。
わたしたちと同じような価値観を持ったキャラクターが、わたしたちが過ごす現実世界を舞台に生活しており、ある日を境に非日常的世界に足を踏み入れる。
物語の展開はだいたいこんなところです。
有名な作品ですと『となりのトトロ』や『羊をめぐる冒険』がそれにカテゴライズできます

ですから物語の序盤ではファンタジー要素が欠片も感じられないほど、いたって普通の「世界(=日常)」が描かれているのが大半です。
あくまでも日常と非日常が融合した世界を描くことに限りますので、『風の谷のナウシカ』とか『ロード・オブ・ザ・リング』といったわたしたちが生きる現実世界の色々な法則と大きな乖離がある世界──つまり、わたしたちにとっての非日常的が舞台となっている作品は「マジックリアリズム」にあたりません。

異世界への穴」に話を戻します。
ここで言う「異世界」を、先述した「非日常」と同義のものとしますと「異世界への穴」とは「日常と非日常の境目」のことです(長いので以降は「穴」と表記します)。
ペンギン・ハイウェイ』においてはアオヤマくんが森で「海」という水の球、すなわち「穴」と邂逅し、非日常的世界へと足を踏み入れることになりました。
ここからがわたしの書きたかった勘所なのですが、個人的に「マジックリアリズム」は非日常的世界をどう描くよりも「日常と非日常の境目をどこにおいたか」という点に作家の個性が強く表れると思うんです。
ペンギン・ハイウェイ』と『となりのトトロ』では森に「穴」があるとしました(童話なら『ヘンゼルとグレーテル』もそれにあたりますね。森に「穴」があるという感覚は人類に普遍的なものなんでしょう)。
でも「穴」というのは実体的に存在するスポットだけに限定されません。
それは、人間の精神的なものでもありえるわけです。
わかりやすい例としてイタリアの小説家マッシモ・ボンテンペルリ(1878-1960)が第二次世界大戦後に書いた『巡礼』という作品を挙げます。
わたしは以前に、
この『巡礼』を紹介するコラムを書いたのですが、そのときに「日常と非日常の境目をどこにおいたか」という考えを思いついたので、そのコラムの一部を引用して説明します。


『巡礼』は(…)子供と大人の境目という不安定な青年期の主人公が、合唱しながら行進している「巡礼たち」に交じって「巡礼」に出るという物語だ。
これは「若者が家郷を捨てて、旅立つ」という世界中で展開されている冒険的説話で、このことから察せられる通り、『巡礼』は若者の成長を促すために書かれた教養小説である。
このような物語は山ほど存在するが、『巡礼』はそれらの作品とは少し毛色が違う。
普通は主人公の巡礼に出る理由や目標などが描写されるが、この作品にはそれらが一切描かれない。
(…)主人公が巡礼に出た理由は「好奇心に突き動かされた」からである。
功利的な理由など無い。
(…)それはつまり、直感に従うかどうかが『巡礼』における物語の最大の分岐点ということである。
ボンテンペルリはそこに「日常と非日常の境目」をおいた。

その巡礼はぼくをさそった。

「きみも来ないか?」
ぼくはすぐに同意した。
「喜んで行きましょう」

主人公は直感に従った結果、天使や悪魔と遭遇するという非日常的な体験──つまり、既存の価値観が通用しない「未知の領域」に足を踏み入れることになる。


小説の冒頭では主人公は自宅の窓から外を眺めているだけで、森とか洞窟といった如何にも「穴」らしきところにいるわけではありません。
でも、彼は異世界に足を踏み入れることとなったのです。
その理由は『巡礼』で描かれた「穴」である「好奇心」に主人公が従ったからです。
興味深いのは、コラム内でも触れていますが『巡礼』が教養小説ビルドゥングスロマン)であることで、教養小説である以上、ボンテンペルリがマジックリアリズムの手法でもって読者に送ったメッセージは決して夢物語的なものではなく、現実世界に当てはめて活用することができる「術」であったとわたしは考えてます(そもそも日本で『巡礼』が教養小説であると論じる人がわたし以外にいないと思うのですが。正式には幻想小説にカテゴライズされてるみたいです)。
また、このコラムを書いているときに「好奇心」が「穴」であると説いたあの人を思い出しました。
スティーブ・ジョブズがその人です。

The most important is the courage to follow your heart and intuition, they somehow know what you truly want to become.
「いちばんたいせつなことは、あなたの心と直感に従う勇気をもつことです。あなたの心と直感は、あなたがほんとうはなにものになりたいのかをなぜか知っているからです。」


スタンフォード大学の卒業式でのスピーチですね。
ボンテンペルリとジョブズの言葉は、「好奇心」という「穴」に向かって進め、という点で共通しています。
ほんとうはジョブズのスピーチもコラムでも引用したかったのですが文字数がオーバーするから泣く泣く削ったので、本記事でそれが叶いほくほくです。

さて、話が脱線している気がしますが、いいかげん長くなってきましたのでぼちぼち終わりにします。
異世界への穴」というファンタジーなフレーズを主題にしたわりにけっこう現実味のある内容になってきましたね。
続きは往復書簡を続けながら触れていければと思います。
ではでは。
あ、運動ですが、さいきん気温があがってきたので秋が来るまで自粛しようかと思います。


互いを見ないカップルについての私見(K君との往復書簡)

K君、お疲れ様です。
「逃げ恥は興味深い」を拝読しました。
公開書簡をしたいとのことですので、さっそく返信を書こうかと思います(と書いたのはもう二か月ほど前なのですが)。
公開書簡ですからジャルゴンで語り合うわけにもいかず、
「これってああだよね」
「うん、そうだね」
と互いに同意を繰り返しているやりとりは周囲から見て面白くないですし(いちおうわたしのブログには五人くらいの読者がいるみたいです)、視野狭窄も招きかねませんので、ここはあえて議論に発展するように反論的な私見を述べて返信に代えたいと思います。


記事内で印象に残った部分はここです。

「今の世の中周りを見渡せば、カップルで喫茶店にいるのに携帯ばかり見る2人や、カップルとは『数ヶ月で別れるもの』というイメージが目立つように思われます。そういった希薄そうに見える関係や刹那的な関係には私が想像もしない深いものがあるのかもわかりませんが、恋愛関係とはそんな関係のことを指しているかと問われたら私は懐疑的です。」


具体的には次の二点について。

①「カップルで喫茶店にいるのに携帯ばかり見る2人……」
②「カップルとは『数ヶ月で別れるもの』というイメージ…」

まずは①から考えていきます。

カップルで喫茶店にいるのに携帯ばかり見る2人……」
これを見てK君は「相手がいるんだから会話しなさいよ」と思ったのではないでしょうか。
その感じはわたしにもわかります。
しかし、現代においてはこれは礼儀作法なのかもしれない、という意見をわたしは目にしました。
それは内田樹先生と岡田斗司夫さんの対談本に書かれています。


岡田「(前略)うちの学校の生徒にはぼくと話しているときでも平気でケータイを操作する子がいるんですよ。恋人や友達と一緒にいるときでもおなじなんです。なぜかって考えると、それって彼らのなかでの礼儀作法なんですね」

内田「礼儀作法?」

岡田「はい。つまり自分は自分のマネジャーであって、目の前の第一世界の自分と第二世界の自分をつねにマネジメントしてるわけです。先生と話している私、ネットで友達とつながってる私など、私がいくつもあって、(…)『自分のなかで複数世界がレイヤー構造になっているという真実』を目の前で見せるという行為を通じて、『各レイヤーのマネジメントをするリアルな姿まで見せてるのは、あなたが大切な人だからだよ』というメタ・メッセージを送っていることになると考えているからだと思います」
内田樹岡田斗司夫『評価と贈与の経済学』、徳間書店、一二五頁)


これはわたしにはとても納得のいく分析です。私自身、ここで例として挙がっている若者と同じことをするからです。
もちろん「複数世界がレイヤー構造になっているという真実」を開示することが礼儀として通用するのは同じ価値観を持っている相手に限られますので、誰に対してでもやっていいわけではないですが、K君が見たカップルに関しては二人とも同じことをしているので、傍目には奇怪に見えるだけで特段問題はないだろう、とわたしは思います。
もし、これがケータイじゃなくて本だったらどういう印象になるのか今想像してみたら、文学少年と文学少女に特有のコミュニケーションの在り方のようで青春の香りがしませんか(村上春樹の小説ではこういう雰囲気のシーンがよく出てきます)。
どちらかというとこれに関しては、会話をしていないことが問題なのではなく、ケータイという現代を支配する文明機器への嫌悪感が悪い印象をもたらした、ということではないでしょうか。

②の「カップルとは「数ヶ月で別れるもの」というイメージ…」に移ります。
これに関しては率直に述べると、K君の恋愛における価値観が少々古いのかもしれません。
と申しますのは、カップルが離散する際に「別れる」というプロセスを経由する人が減ってきているからです。
いや、断言的に書きましたけど、実際はわたしの知人の例しか知らないので拡大適用することは憚られますが、まあ聞いてください。
次の例を考えると、どうして「別れる」プロセスが無いのかがわかります。
なぜなら、その知人は現在の恋人と付き合い始めるときに「告白」をしていないからです。
「告白」によって恋人同士になるという契りを交わしていないので、そもそも「別れ」が存在しないのです。
「告白」に限らず、結婚にしても就職にしても、あらゆる契りはこれまでの関係性を過去のものにして新しい関係性を構築するという、いわば境界線を設けるものですが、それがない。
人間関係の「ボーダーレス化」ですね。
互いの関係性にハッキリとした段階は無く、色彩表のように境界線がぼんやりとしているのです(境界線がぼんやりしているのは当人以外の人でもなんとなく知覚することができます。だからK君は「関係性が希薄そうに見えた」のかもしれません)。
わたしが続けて、
「どの段階で(段階はないようなものですが)恋人であると認識したのか」
と質問したら、
「恋人と言って差し支えないであろう距離感になっていることに気が付いたから」
と知人が答えました。
これは友人ができるときとほとんど同じ状況です。
K君も覚えがあると思いますが、友人というのは大抵の場合「いつの間にか」できているものです。
初めて会った日がいつなのかはなんとなく覚えている気がしますが、いつから友人になったのか、についてはほとんど見当がつきません(話が逸れますけど、洋画では「あなたとはいい友達になれる気がするわ」というセリフを度々目にします。で、そのあとに仲たがいするのがお約束ですよね)。
「見かければ挨拶を交わすし、世間話に興じる回数も増えて、家に帰ってからもケータイで連絡をとるようなことが増えてきた━━━━、じゃあ、彼はわたしの友人だな」
上記の友人を恋人に入れ替えると、さきほどの知人の例と同じものになっていますね。
しめに入ります。
K君の恋愛における価値観の古さがどこにあったのかというと、恋愛における人間関係には知人、友人、恋人といった段階が設けられていて、それらをシフトする際には告白や別れの宣言といったプロセスが必要である、という点です。
現在においては段階をハッキリさせずにぼやけさせることが好まれており、その理由は、段階ごとに設けられている「ポスト」に束縛されることを忌避するようになったからです。
ポストに束縛はされたくないが、各ポストを自由に回遊できるような身軽さは確保しておきたい。
だから、契りを交わさない。
なんともスマートではありませんか。
物事をハッキリさせずに曖昧なままにしておくことは日本の伝統文化でありますので、これもまた特段問題はないのであります。

返信がずいぶん遅くなってしまったので、ひとまずこれで筆をおきます。
冒頭と同じことを繰り返しますが、あえて議論に発展するように反論的に私見を述べましたので、今後公開書簡を続けていく中で少しずつ深堀りできればと思います。
それでは、お体に気をつけて。


カシワギ、二十四歳になる

本日、カシワギは二十四歳になりました。
ここまで生き延びることができたのも皆さまのおかげです。
平伏してお礼申し上げます。
神と仏にも感謝。
アーメン。
般若波羅蜜多。

気が付くとテレビで活躍してる新人アイドルとかモデルは私と同い年か年下の子が増えてきた。
新聞では若手起業家や将来有望なスポーツ少年が連日のように取り上げられている。
これらの人を少し前までは年上のおにーさんとおねーさんという風に認識していたが、今ではわたしがおにーさんである。
少し前の時代だったら結婚しているのが当たり前の年齢になったから、おにーさんとしての実感が湧いてくるのかと思いきや、そんなのは兆しすら感じられない。
このことについて内田樹先生なら「おにーさんの役目を果たすことでおにーさんになるのである。おにーさんになってから役目を果たすのではない」とおっしゃるのだろう。
サルトルも同じことを言っていたし。

しかし、どうも最近そういうことをよく考えるようになった。
特に、小津安二郎の『秋刀魚の味』をこの前観たとき「そろそろ結婚とかを考えなくてはいけないのだろうか」と感じながら鑑賞していたのが自分のことながら印象深かった思い出として記憶している。
秋刀魚の味』は年ごろの娘を結婚させるために父があれこれと奔走する物語である。
この娘の年齢は二十三歳だった気がする。
相手の男も娘と同い年くらいだった。
鑑賞時のわたしと同じ年齢である。
しみじみ。

似た印象の思い出として、少し前にわたしの高校の知り合い会ったときの出来事も挙げられる。
飲み会で集まったとき、その知り合いがお子さんを連れてきたのだ。
子供を授かっていたことにも驚いたが、すっかり大人の風格を備えていて「子供を持つと、ほう、ここまで人は変わるものなのか」と、その人の成熟ぶりに感嘆した。
これこそ内田先生が説く「大人」の姿なので、「なるほど」とわたしは深い感動を覚えたのである。
子育て頑張ってください。

内田樹先生と平川克美先生は最近古希を迎えたそうである。
ラジオデイズで配信されているお二人の雑談音声「たぶん月刊『はなし半分』」でしみじみと七十歳になった実感についてお話されていた。
ふんふん、と愉快に聞いていると、お二人が同窓会に参加したときの話になり「七十歳になっても自己承認欲求は消えない」という話になった。
その話は以下のように続いた。

・仕事をやめると自己承認欲求が強くなる
・認めてほしいと思う相手は世間より身内に偏るようになる
・自慢話が多くなる

そうなのか。
カシワギは承認欲求がまだまだ強い若輩者だけど、年を重ねて成熟すればそのような尻の青い欲望に駆られることは減ってくるのだろうと思っていたが、そう簡単な話ではないようである。
そんなの当たり前じゃん、と言われればそうなのかもしれないのだけれど。

はてはて、ではいったいどうしたらよいのだろうか。
こういうときに内田先生の本を開くとよいことがある。
道に悩んだ修道士が聖書を開いて箴言からヒントを得るように、カシワギは内田先生の本を開いてヒントを得るということをしばらく繰り返してきたのである。
「そのうちなんとかなるだろう」と書いてあった。
さすが内田先生である。


カシワギが頻繁に聴く曲まとめ

頻繁に聴く曲(好きな曲)を訊ねられたときにブログにまとめておくと楽なのでまとめました。
基本的に映画のサントラとかエレクトロニカといった「インスト」が多いです。
※紹介する曲は随時更新して増えていきます。

■映画のサントラ

Trent Reznor And Atticus Ross

Hans Florian Zimmer


すぎやまこういち


Justin Hurwitz

■クラシック


セルゲイ・ラフマニノフ


アントニオ・ヴィヴァルディ Recomposed by Max richter

■エレクトロニック・ミュージック


Kettel


Squarepusher


Art of Fighters

■ゲームのサントラ

Jeremy Soule

■インスト以外


Pink Floyd


Pink Floyd


Alizée